定点ー岡垣町・射爆撃場ー

 米軍・自衛隊が使用 32年前の撤去闘争

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 32年前の1978年6月7日、岡垣町にあった射爆撃場が閉鎖された。現在、普天間基地をはじめとする基地撤去闘争が盛り上がりを見せる沖縄。北部九州でも基地撤去闘争の歴史がある。

 響灘に面した岡垣町の海岸線は「三里松原」と呼ばれ、海岸線の延長12キロ㍍から名付けられた。射爆撃場閉鎖までの歴史については「岡垣町史」(1988年発行)に詳しい。 岡垣町の隣町、芦屋町にある航空自衛隊芦屋基地は元々、三里松原内の敷地が開発され旧陸軍の飛行場として整備されたもの。1940年5月に完成。「松原の破壊が始まった」と町史は記述する。

 まず1945年の敗戦後に持ち上がったのが旧八幡市による三里松原の払い下げ。食糧難で松原を潰して野菜畑を造成する計画だった。若松市から芦屋町を経由し岡垣村を横断する、八幡市営電車軌道予定図も示された。当時の八幡市はし尿運搬の船舶不足だったため、し尿を肥料に使う計画。しかし岡垣村の村民が猛反対し、払い下げは実現しなかった。

 次に射爆撃場建設計画が浮上した。芦屋飛行場を接収していた米軍は、岡垣村の黒山地区の森林地帯を演習場に、三里松原を「対地射爆撃場」に芦屋飛行場と一体的な施設として整備。射爆撃場の範囲は三里松原を流れる、矢矧川から汐入川の間。昭和47年、「岡垣対地射爆撃場」に名称変更された。

 訓練を実施したのは板付・岩国基地所属の米軍ジェット戦闘機。自衛隊も使用した。当時はベトナム戦争が勃発し、米軍の訓練は実戦に近かった。訓練内容は機関銃による実弾射撃と、爆弾投下。訓練は土日を除き毎日午前7時から午後5時まで実施された。戦闘機の飛行コース下には住宅地や学校、病院があった。訓練被害は模擬爆弾落下や火災発生、不発弾で5歳児が亡くなる事故も起きた。騒音問題はもちろん、戦闘機の墜落事故もあった。

 芦屋基地は1960年に返還されたが、射爆撃場の米軍使用は継続された。相次ぐ訓練被害に住民の射爆撃場撤去運動が盛り上がり、72年、町議会が全面即時撤去を求める意見書を採択。同年、日本政府に返還された。その後は自衛隊の専用訓練場となった。

 自衛隊訓練にも住民の不満が爆発し、反対運動が展開された。当時の町長は自衛隊使用に同意すると発言し、即時撤去を求める住民団体が結成されるなど、射爆撃場撤去問題が連日報道され、社会問題化した。72年、防衛庁と町長は「五年後の射爆撃場のあり方を再協議」で合意。一時中断されていた自衛隊訓練が73年8月に再開されたが、住民らは浜辺でタコを上げて飛行阻止を行い、西門前での座り込みなど撤去運動はさらに強化された。

 (2010年6月11日付)



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